まさに衆議院議員選挙の真っ最中だが、候補者たちの(思想的な)立ち位置も有権者たる自分の立ち位置も混沌として、どう行動していいのか分からなくなってしまっている。そんな中、自分の立ち位置を確認するために有用な記事を見つけた。finalvent氏の「極東ブログ」の8月21日付のエントリー「[書評]自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(森村進)」に紹介されていた森村氏による分類を以下に引用する。
リバタリアンとは何か。本書は、類似または対比される思想的立場との違いを次のようにチャート的にまず示している。ごく基本的な事項なので著者森村氏の分類で、確認の意味でまとめておきたい。
- リベラル
- 精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再配分を擁護する。
- 保守派(コンサバティブ)
- 個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する
- リバタリアン
- 個人的自由も経済的自由も尊重する
- 権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)
- 個人的自由も経済的自由も尊重しない
- 全体主義者
- 権威主義者(オーソリテリアン)・人民主義者(ポピュリスト)の極端な形態。ファシズムや共産主義。
著者森村氏は日本の保守主義者について、伝統尊重を唱えグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向があるとし、思想的には保守主義ではなく、権威主義者に近いとしている。
さらに日本では、いわゆる左派も同様にグローバリズムや規制緩和の動きに反対する傾向が強く、同質の権威主義に見える。(以下略)
極東ブログ「[書評]自由はどこまで可能か-リバタリアニズム入門(森村進)」より
この分類を元に自分の立ち位置を考えてみることにする。
自分は権威主義者か?
具体例をいくつか挙げて考えてみる。小泉政権下で問題となった皇位継承問題でも正当性が正統性を上回るのならいわゆる「女系天皇」も容認しようと考えている。また、グローバリズムや規制緩和には今でも寛容だ。選択的夫婦別姓についても、それを必要としている人が居れば別に構わないと考えている。そして、国家についても民族の上位概念と考えているので、共同体への帰属意識、愛国心、国家元首への敬意や国旗・国歌への敬意は必要だが、それが大和民族の伝統のみに依拠すべきとは考えていない。これはまず当てはまらないと思う。
自分は保守主義者か?
個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する、という定義だけならまさにそう言えないこともないのだが、個人的自由への介入といっても国家の維持に関わるもの以外は控えめに、という考え方である。具体的には防衛、治安維持、公正競争、そして教育の分野が主な対象である。いくらリバタリアンでも外交や防衛は国家の役割であることは認めるだろうし、有事法制の必要性も認める人が多いだろう。また、公正な競争のための規制はリバタリアンの最も重視するところであろう。この程度の規制が必要(特に有事法制)と思っているからといって自分は保守主義者だとは思わない。
自分はリバタリアンか?
個人的自由も経済的自由も尊重する、というのには反対しないが、問題はその程度である。第一、リバタリアンの思想についてよく知らないので、どの程度の自由主義者ならリバタリアンと言えるのかが分からない。もう少し勉強してから答えを出したい。
自分はリベラルか?
「個人的自由」の尊重には賛成するが、規制や財の再配分はほどほどに、と考えている。まったく財の再配分を行わないと中国並みのジニ係数0.5以上というすさまじい格差社会になるので不味いが、現状の日本では年金や生活保護などの再配分後のジニ係数は0.3台の前半(OECDの統計による)くらいなのでマクロ的には最適配分に近いと考えている。どうもこの意味でのリベラルとは言いにくいようだ。
結局自分は……?
以上のように考えると、自分はリバタリアンと(上記の意味での)保守主義者の境界線上を彷徨っているのかな、という気がする。そして、ネット上に多く存在する「保守主義者」に違和感を持つ理由も分かってきた。彼らは保守主義者ではなく、権威主義者の要素が強いからだと思う。右も左も日本には権威主義者が多い、という指摘は首肯できるものがある。早速finalvent氏ご紹介の著作を購入して読んでみることにした。